令和金貨




🔴大本営(だいほんえい) は、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関。 その設置は統帥権の発動に基づくとされ、平時には統帥部(陸軍参謀本部及び海軍軍令部)や陸海軍省に分掌される事項を一元的に処理するために設置された。 日清戦争と日露戦争で設置され、それぞれ終戦後に解散した。 日中戦争(支那事変)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま、太平洋戦争終戦まで存続した。 連合国からは 「Imperial General Headquarters」 と呼ばれた。 太平洋戦争末期の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が大本営発表として流され続けた。このことから現在では、権力者、利権者が自己の都合の良い情報操作をして、虚報を発信することを慣用句として「大本営」「大本営発表」という表現が用いられる。 なお、陸海軍連合大演習および陸軍特別大演習においては司令部でなく、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。 🔴白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、 日本の実業家。 貿易庁長官。 兵庫県芦屋市出身。 🔵連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。 🔴生い立ち編集 白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、 兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市) に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。白洲家は元三田藩の士族の出。 後に兵庫県川辺郡伊丹町(現:伊丹市)に転居した。 精道尋常小学校、御影師範学校付属小学校高等科を経て、1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学。サッカー部・野球部に所属。アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。 神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に中国古典学の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。 🟢祖父である白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んだ。 🔴イギリス留学編集 1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに進学。西洋中世史、人類学などを学ぶ。のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る。 1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業し、大学院へ進学。 🔵自動車は、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットル(1924年)を所有。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた。 🟢白洲次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている。また、所属していたクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる。 🔴帰国編集 1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた。 1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった]。 この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[9]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。 🔴戦時下編集 第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。 外国への留学時代に日本と諸外国との国力差を痛感した白洲は、当初から戦争に反対の立場を貫いていた。 🔴終戦連絡中央事務局編集 1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。 🟡昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対する クリスマスプレゼントを届けた時に、、、 「その辺にでも置いてくれ」 とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して 「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」 と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。 🔴憲法改正編集 同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[注 2]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。 同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。 🔴貿易庁長官編集 1945年(昭和20年)12月15日、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。 🔴日本航空 同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現:日本製鉄広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。 🔵白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めた。 🔴サンフランシスコ講和会議全権団顧問編集 1950年(昭和25年)、連合国との講和問題で池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約締結の準備を開始した。 🔴1951年(昭和26年)9月、 サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、 日本の「ディグニティ(尊厳)」 のために、当日になって、急遽日本語で演説することとしたという。 白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、 「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」 と一喝、急遽日本語に書き直した。 原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている。 1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。 吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。 🔴実業界へ復帰編集 吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。 就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。 また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。 東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。 🔴晩年編集 軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968年型ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、初代ソアラ(Z10型)のオーナーであり、その改善点を伝える形で没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっており、その際に上記のポルシェをトヨタに寄贈し参考にせよともしている。 🔴死去編集 しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂の前田外科病院で死去した、83歳没。 墓所は兵庫県三田市の心月院である。 妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。 実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。 そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。 なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った 「日本国憲法とベントレー」 (その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。


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🟡鬼塚英昭 大分県別府市生まれ。 大分県立別府鶴見丘高等学校卒業。 別府鶴見丘高校は地元名門校として知られ、同校出身の著名人の一人としても名前が挙がる。 卒後は、上京して中央大学法学部に入学する。 働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。 故郷の別府にて家業の竹細工職人となる。 作家デビューは遅く、2002年になってからであった。 最初は自費出版であったが、執筆のスピードが速く、しかも著書の多くが上下巻分冊の大作であった。 一方の竹細工でも、別府市内でギャラリーで個展を開催するなどしている。 竹の技を絵に生かした珍しい作 風であったとされる。 竹細工の分野でも「豊の国の竹の文化史」という著書を出版している。 著書は、大分県内の合計170人もの細工職人や業界関係者から取材を行って纏め上げられ、竹細工や竹宵の祭りなど 「大分県民」と「竹」の歴史的関わり合いを紹介したもので、ここでも「現代の竹細工の源流をたどれば、この箕作りの世界に行き着く」との分析を記した。 2004年には別府市実相寺に居住していた。 2016年1月25日胃癌で死去。 78歳没。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 🟡秦 郁彦(はた いくひこ) (1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の歴史家、大蔵官僚。 専門は日本近現代史、軍事史。 拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学法学部教授を歴任。 学位は法学博士(東京大学、1974年) 山口県防府市生まれ。 父は広島県広島市の出身で、小学生までは郁彦の本籍地も広島の爆心地にあった。このため自身は広島出身でもあると述べている。 父は鉄道省の技術官吏で、九州の宮崎県、出水(鹿児島県)、若松(福岡県北九州市)の順で機関区長をしたため、小学校を5回転校。 太平洋戦争中に広島市に引っ越し、原爆投下の一年前に母の実家がある山口県防府市に移った。 父は戦時中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して終戦の1か月前に戦死した。 1951年、山口県多々良学園高校を卒業し、東京大学文科Ⅰ類入学。 進学振分で法学部第3類(政治コース)へ進級。在学中は戦史や、清浦奎吾ら政治家の研究に没頭した。 二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した。 当初の指導教官は丸山眞男だったが、この休学で丸山ゼミには入れず、岡義武に学んだ。 1955年の夏に国家公務員6級職採用試験を受験。行政職は採用が少なく、法学部でも第3類(政治コース)であったため、法律職では、終日、法律を勉強してきた連中に太刀打ちできないと考え、経済職を選択。近代経済学を独力で学び、試験に臨んでいた。 1956年に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。将来の転職も考え、通商産業省と自治庁の内定を辞退し、大蔵省に入省した。朝日新聞の入社試験も受けたが、落第した。 入省同期に小粥正巳(日本開銀総裁、大蔵次官)、大橋宗夫(関税局長)など。入省当初は学生時代の戦史研究の延長で出版社の仕事もしており、『別冊知性・秘められた昭和史』(河出書房、1956年)の刊行などに携わった。 大蔵省では為替局調査課、中国財務局、名古屋国税局で勤務したほか、経済企画庁経済研究所に出向。大蔵省や経企庁に半ば公認を受け、日本国際政治学会などでの研究活動と二足の草鞋だったと回想している。 1963年にハーバード大学、1964年にコロンビア大学にそれぞれ留学。1965年に防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1969年8月に大蔵省へ復帰して、国有財産総括課長補佐として沖縄返還の事務を担当。1971年から1976年まで大蔵省財政史室長を務め、叢書「昭和財政史」(「大蔵省財政史室」 編として、東洋経済新報社から上梓された)の編纂責任者となり、自身もそのうちの一巻『アメリカの対日占領政策』を執筆した[14]。財政史室長を最後に大蔵省を退官した[1]。 大蔵省を退官した後の5年間、読売新聞社の嘱託として、公開された外交文書の分析などに協力したこともある。 プリンストン大学大学院客員教授(1977年)、拓殖大学政経学部教授(1980年 - 1994年、依願退職)を経て、1994年に千葉大学法経学部(法政経学部)教授に就任。 1997年、千葉大学を定年で退官し、日本大学法学部教授に就任。 2002年に日本大学退職後は同大学院法学研究科非常勤講師を2010年まで務めた。